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![]() 護摩段山の山頂付近からの景色。 この先に聖地「高野山」がある。 |
『南無大師遍上金剛』と背中に大きく書かれた白い巡礼服を身に纏ったお遍路さんが列を成して、観光バスから続々と壇上伽藍前の通りに降り立つ。バスのナンバーは愛媛だ。最近のお遍路さんは、バスでお寺からお寺まで移動して、巡礼するという話を聞いた。その方が安上がりだし、だいいち日数もかからない。時代の合理性の余波が、こういったところにも反映されてくるものなのだなと変に納得してしまった。 |
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| 世界遺産登録のせいなのか、それとも単に好天候の日曜日だからなのか、人出がやたら多く、外国人の姿もちらほらと見られた。自動車がそこここで路上駐車されていて、歩行者の邪魔をしている。駐車場は結構空いているのに、どうしてそこに車を入れないのか。駐車場に車を乗り入れてみて分かった。蛍光緑のジャンパーを着た人々が、駐車場前で一台一台車を止めて、チラシと共に駐車料金を集金している。彼らに1000円の料金を支払い、配られたチラシを読む。今年、高野山が世界遺産の登録を受け、それを後世に引き継ぐために自動車の排出ガスからの環境保全や交通渋滞を解消する対策が急務で、「パーク&ライド(マイカーをふもとに置いて、交通機関を利用して下さいね、という制度)」を実施しているという旨が書かれてあった。1000円の駐車料金は痛いが、私達日本人はこの文化遺産を守る義務がある。例え地元住民ではないただの一観光客であっても、その責任の重さは変わらない。だけど、路上駐車が逆に多くなるという悪循環で、このパーク&ライドという制度の見直しが今後必須だというのが目に見えて分かった。屋久島や白川郷などの他の登録地でも、観光化と環境文化保全の板挟みで、多くの課題を抱えているという話を聞く。登録地ゆえの住民達の受難、何ともやりきれない話である。 高野山といえば、真言宗の開祖の弘法大師が眠るサンクチュアリである。今も奥の院の御廟に彼は生き眠り続けている。 |
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| 世界遺産に登録される二年前に初めて訪れたこの御廟の雰囲気には、忘れられないものがあった。深い朝靄の中に幽玄と佇む苔むした墓石。木の根元に密やかに埋もれ柔和な笑みを浮かべるお地蔵さんの群。千年もの長い歴史を見守るかのように立派にそびえ立つ老杉。朝の勤めを終え音もなく御堂に消えて行く黄色い袈裟を身に纏った僧侶たち。まるで木霊のようにどこからか響いてくる僧侶たちの念仏の声。その音色は、静寂に寄り添うような、そこにある全ての存在を享受するかのような不思議な音色だった。その雰囲気にただただ圧倒され、わたしはここが日本有数の聖地であることを実感した。想像を絶するほどの遥か遠い時代から、この地は人々の祈りによって大切に守られてきたのだ、非常に尊い地であったのだ、と。 |
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その雰囲気がたったの二年という歳月で微塵もなく消え失せてしまっていたことにわたしは驚いた。ひっそりと厳かに静まり返っているはずの聖地は、団体観光客の笑い声とガイドのがなり声がこだまし、祈りを捧げる場所には程遠い。御廟から先は撮影禁止なのに、平気で写真を撮りまくる人、脱帽を義務付けられているのに全く従わない人、手をあわせることもしない人。それもほんの一部の人間ではない。多数なのだ。これがイスラム教のモスクや、タイの寺院であれば憤慨されることだろう。いや、捕まるかもしれない。『郷に入れば郷に従え』という慎み深い観念はもはや日本人の中では廃れてしまったのだろうか。それも時代の流れなのだろうか。 |
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