>>>R42と熊野巡礼の旅INDEX

人間のスピードに帰ろう。原始に帰ろう。

私達現代人は、己の足を使って歩く以外に様々な移動手段を手に入れた。そのため、人間は”二本の足で立ちあがって歩く”事を忘れてしまっている。私達人間は、”立って歩いた”事により、多くのものを手に入れた。文化、文明、いのち、そして現在。人間にとって一番基本的で大切な”歩く”という行為をもう一度見直しませんか?無心に歩いて、歩いて、人間としての、地球上の生物としての己を思い出しませんか?

第2回 ウォーキング・メディテーションin熊野

2003年5月24日 「仏門に目覚める、発心門〜本宮大社」編

●タイムスケジュール

 6:10   「龍神バス」本宮大社行き 田辺駅前

 8:00   本宮大社前到着 旧本宮大社跡「大斎原」参拝

 8:48   本宮町営「便利バス」発心門王子行き 大社前発

 9:05   発心門王子前着 ウォーキング開始(発心門〜本宮大社)

11:00   本宮大社到着 本宮大社参拝

12:05   「龍神バス」田辺行き 本宮大社前発

12:13   川湯温泉着 昼食・温泉に浸かる

15:13   「龍神バス」田辺行き 川湯温泉発

17:03   田辺駅前着

●熊野古道ウォークコース

発心門王子→水呑王子→伏拝王子→祓戸王子→本宮大社

距離約6km 所要時間約2時間30分

●ウォーキング・メディテーションのこころえ

本来人間の持つスピードを思い出すために無心で歩く。自然に五感を研ぎ澄ませ、自然に身を委ねて心身共に”熊野”になりきる。

●持ち物

リュックサック(ナナオ・サカキにならえ)携帯用灰皿、ゴミ袋


今回は、この春から「龍神バス」から発売されている「ほんまもんクーポン」を利用しました。田辺から本宮大社まで本来の運賃の半額2,500円で往復でき、さらに川湯温泉、湯の峰温泉、渡瀬温泉のうち好きな温泉に無料で入れるというかなりお得なクーポンです。古道を歩くなら、これを利用しない手はありません。こんなに便利なクーポンがあるのに、あまり利用者がいないのかバスの運転手さんはあまりクーポンの扱いになれてないみたいでした。利用したい方は、バス会社で使い方をきっちり聞いていかないとぼったくられます。ちなみに私達は川湯温泉の「富士屋」という旅館の温泉を利用しました。露天風呂で、ほとんど貸しきりです。道に面しているので裸を誰かに見られる恐れがあります。まぁ、わたしのように少々露出狂の方は楽しいですが。

今回のウォーキング・メディテーションは、バスの時刻があり時間が限られていたため、私達は一番手ごろなコースを選びました。上に書いたコースは下り坂がほとんどなので、初心者に向いてると思います。龍神バスで本宮大社前に到着した私達は、まず旧本宮大社後の「大斎原(おおゆのはら)」を参りました。その後、市営の「べんりバス」というバスに乗って発心門まで移動しました。「べんりバス」は土曜日と日曜日しか運行されていません。しかも、マイクロバスくらいの小さなバスなのでシーズン時にはとても込み合います。一日2便です。

 バスを降りたらまず発心門王子が目の前に現れます。ここは、かつて熊野九十九王子のうちで最も重要視された王子の一つで、社格の高い五体王子(他に滝尻王子・近露王子・湯川王子などがある)でした。今は小さな社があるだけですが、昔は大鳥居がありその前ではらいをして中に入り、それから王子に詣ったようです。発心門はいわば本宮大社の入り口だったのです。その後、30分程歩くと水呑王子に到着しました。もともと小学校分校の敷地であった広場の一角に水呑王子と刻んだ碑があります。名のとおり休憩所となっていたみたいです。なんだか、この一角は異様な雰囲気でした。旧校がかもし出す雰囲気です。この辺りから徐々に山道に入っていきます。40分くらい歩いて次に現れたのは伏拝王子です。本宮旧社地の森が遠望できる場所で、参詣者はここから大社の社殿を拝んだといわれています。確かに高い位置にあり熊野の深い山波が遠くまで見渡すことができました。風も歩き疲れた身体に良い感じです。この王子の下に茶屋があります。そこで少し休憩(トイレ)できるようになってました。その横あたりにある家屋がうわさのNHK朝の連続テレビ小説「ほんまもん」の主人公である木葉の実家です。つい先日撤去されたらしいですが、私達はぎりぎり見ることができました。この一角だけは観光客が多く、水呑王子あたりから一緒に歩いて来た東京のおじさん(一人で来ていたらしい)も興味を惹かれるのか熱心に見入っていました。伏拝王子をすぎると徐々に道が険しくなり、本当の山道になってきます。少々辛いですが、古くから「蟻の熊野詣」と言われた歴史が感じられる苔むした石段がとても美しいです。今度このコースを歩きたいと思った方は、先へ進むことばかり考えず、道の途中で石段を振り返ってみてください。すごいですよ!一時間ばかり急な石段を下っていくと、森が途切れ、急に視界が広り、住宅地みたいなところへ出てきます。そこをしばらく歩くと、最後の祓戸王子です。この王子は現本宮大社のすぐ裏手にあたり、杉やイチイガシの大木のかげに石造りの小さな祠がまつられています。ここは、旅の穢れをはらい清める潔斎所であったものとみられ、それが王子の名前となったと思われます。さて、いよいよ熊野本宮大社です。ここは古来上下の信仰の篤い熊野三山の一つで、上、中、下の三社よりなるので熊野三所権現といわれています。熊野川の中洲が旧社地で、明治22年の大水害に遭い、現在地に移りました。昔の人は、「伊勢に7度、熊野に3度」というくらいココに来る事に憧れをもっていたようです。熊野の険しい山道に耐え身体はぼろぼろでも、この社を目の当たりにすると喜びで胸がいっぱいになったというのです。 旅の途中で息絶えた人もいたようです。山賊に襲われた人もいたようです。それでも京の都から参詣者が後を経たなかった、、。そんな太古からの人々の熊野に対する憧れと執念がこの地に、この古道に、今でも渦巻いているような気がして厳粛な気持ちになりました。

 ウォーキング・メディテーションはここでコース終了しました。私達はその足で川湯温泉へ向かいました。川湯温泉は、大塔川沿いにあり河原を掘ればたちまち露天風呂が出来るという野趣に富んだ温泉です。あんなに楽しい温泉はありません。ぜひ足を運んでみて下さい。

〜熊野に捧げる讃歌〜 『発心門〜本宮大社ウォーク編』

著:西尾直子(脚本・ルポルタージュ・小説書いてます)

 頭上に高く伸びる樹木の葉の、小道の脇に愛らしく密生したササユリの蕾みの、背中をついて回る悪戯な蜜蜂の、ひとつひとつに、限りある生命の息吹の音がする。それら全ては初夏の日射しの中で、青く深く輝き、大きな音の洪水となって、鼓膜に届いてくる。息を吸えば、人に踏み荒らされることのない腐葉土の匂いが、肺いっぱいに流れこんでくる。
 熊野は神々の地、深い谷と山が重なり合うところ、川が始まるところ、生物が密やかに生まれでるところ。
神が宿った森の木は、何百年も昔から、目眩がするほど多くの人々の祈りを聞き、願いをのせた足音を聞き、葉を揺らし、枝を伸ばして、古道を歩くものに囁きかけてきた。
 わたしはきちんとその祈りを聞けただろうか。足音を聞けただろうか。本宮の鳥居を見上げ、歩いて来た道のりを思った。
 発心門、それがわたしたちのスタート地点だった。心を発する入り口、新たな心がそこから生じる、姉がこの地をスタートに決めたのが、単なる気紛れであったのか、それとも歩くコースを考えたゆえなのか、分からなかったが、これから再起を願うわたしにとって、それはぴったりの名前のスタート地点と言えた。
 先を歩く姉の、背中からはみ出るくらいの大きなピンク色のリュックが、歩を進めるたびに、ごとごとと揺れる。彼女はその中に、用意してきたお茶と、汗を拭うタオル、バス会社や駅でかき集めた熊野の案内チラシ、そして『人間本来のスピードに戻ろう』と題された自作の旅のしおりを、入れているのだった。全て、都会での生活に疲れ果てたわたしの為に、用意してくれたものだった。その姉の気持ちが、照れくさくもあり、嬉しくもあった。
 人間本来のスピードに戻る。歩く事で人は何度でも蘇ることができる。それが姉の持論だった。
 「人間って難しいように思うけど、わたしはいたってシンプルやと思うねん。歩く、それだけでいい。自分のペースと力で歩くだけで、大事なものは十分取り戻せると思う。悩んだ時も、苦しい時も、疲れた時も、みんな歩けばいい。」
 確かにその通りだった。人間の営みは困難で複雑なものに見えて、実はそれほどではない。そうしてしまうのは自分の心の中にある虚勢なのではないだろうか。一時間ほど歩いた時、わたしはそう感じた。歩き慣れた人間は次に踏み出す一歩のことを考えて、前を歩くのではない。ただそこに道があるから歩くのだ。だけど、それを素直に受け入れることができない。わたしは少し、人通りの多い都会の道を歩き過ぎた。時に揉まれ、押され、突き飛ばされ、また時に不機嫌な舌打ちとため息を耳にした。そしてその分、わたしは多くの人を揉み、押し、突き飛ばしてきた。
 どこまでも続く奥深い森の中に立っていると、自分が生まれたての無垢な裸の魂だけになった気がする。そこには電車の轟音もない。薄やみをきらびやかに照らす電灯もない。テレビやオーディオから聞こえる音楽もない。人工物が何一つない世界は、粗野な原始そのものだった。わたしは怖れを抱いた。そしていかに自分が多くの人工物に依存することで、自分の弱さを誤魔化してきたかに気づいた。生まれた時、わたしは原始だった。生まれた時に戻るだけでいいはずなのに、それが難しいことのように思える。熊野を歩くことは、決してわたしにとって易しいことではなかった。
 「何やあ。そんな小さい虫くらいに、びくびくしてえ。臆病たれやなあ。」
 いきなり顔にまとわりついてきた虻に驚き、ぎゃあと声を上げると、姉が振り返って笑った。いつから姉はこんなに楽しく笑うようになったのだろう。自分の用意した嘘や罠にわざとはまることで自らを追い込み、決して自分をかわいがろうとしなかった姉が、今はのびやかな足取りで古道を歩いている。その姿は、熊野の木々と馴れ合い、親密な囁きを交わしているように見えた。今のわたしの姿は、熊野の森の木々たちに、どう映っているのだろう。辺りを見渡し考える。木漏れ日が、古道のすり減った石畳の上に降り注いでいる。太陽が小さく二人の影をつくる。葉も枝も樹木の皺も、全てこだまのようだった。息を発すれば、そっくりそのまま真似て息を返してくる。歩を動かせば、そっくりそのまま歩に合わせて森は動く。こだまによって、わたしは自分の姿を知るのだった。それは怖れを抱いたちっぽけな一人の人間の姿だった。
 ひときわ強い風が起こり、木々がざわめいた。太陽が雲の合間に姿を消し、急に辺りが暗くなった。湿り気を帯びた空気が、どこからか流れ込んで来る。雨が今にも降り出しそうだった。
 「見てみ。あれ見覚えないか。」
 姉が先を指して、嬉しそうに叫んだ。わたしが首を傾げると、姉はさらに声を高めた。
 「本宮の鳥居や。バスに乗る前に、ここに戻って来るんやで、って言った鳥居や。歩いて戻って来たんやで。もうすぐゴールや。」
 特別な意味深い言葉のように、恭しく姉はそう言った。憧れの鳥居。何百年も昔から、人はこの本宮の鳥居を目指してただ歩いた。そして彼らから見れば何百年後のわたしたちは、もうすぐそこに辿り着こうとしていた。うまい言葉が見つからなかった。歩いた。ただそれだけの言葉しか頭に浮かばなかった。
  
 バスに乗って湯の川温泉に辿り着き、旅館の露天風呂に入り、そして初めて見るめはりずしを食べた。その時になって、わたしはようやく長い道中、自分が熊野に優しく抱かれていたんだという気持ちになった。リュックを背負っていた肩や、歩き続けた足は、重くけだるかった。久しぶりに動いたせいで、珍しく空腹を感じた。温泉の熱い湯も、めはりずしも、忘れられないほど身体に浸透した。それらは木々の労りや慰めのように、心地よいものだった。歩いた。それだけでいい。スタートからゴールまで歩いた。また一度、わたしは姉の言葉を思い返していた。
 「人間ってシンプルやねん。」
 その途端、わたしの中にあった怖れが、嘘のように身体から抜けていった。


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