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表現を制限することによって、何が得られるのか?
表現を売り物にする私達にとって、なによりも疎ましい存在は規制である。私達は支離滅裂でなんの根拠もない倫理的な理由によりあらゆる表現において強制的に規制をうける。一般論として、それは第三者への配慮からくるものなのだろうが、理解に苦しむ事も否定できない。これでは私達の商売はあがったりだ。言いたい事も言えず、描きたいものも描けない。規制や制限こそが偏見と差別そのものではないのだろうか?見てはいけない、聞いてはいけない、言ってはいけない。全てに蓋をすることで解決されるようなものでもないだろう。むしろ蓋をすることによって、余計に差別意識を生む事にはならないのだろうか?一般的に不適切だと言われる表現に蓋をして満足している人こそが差別主義者ではないのだろうか?なぜなら蓋をするということは、その本人にとって、その対象があってはならないものだと否定することに他ならないからだ。蓋をして否定して無き物にしてしまい、安心する…なんて酷いやり方だろう?私達表現者よりも始末におえないではないか?結論づけてしまえば、表現を規制することは新たな差別を生み出すことになり、何の解決にもならないということだ。表現の規制によって得られるものは新たな差別主義だ!
言葉が全てなのか?言葉を疑え!
人間は言葉を持つようになったために、バカになってしまった。言葉に頼り過ぎて自分や愛する者を見失う人間はこの世に腐る程いる。そもそも言葉とはなにか?意志疎通のための手段ではないのか?意思疎通の多くをを言葉によってまかなっている割には、言葉は何の役にも立たなかったりする。言葉があらゆる差別や偏見やそれにともなう戦争を引き起こしたのだ。言葉を操る人間は何一つ言葉を理解できていないのではないか?言葉を持った人間は無能になってしまった。それゆえに苦しみ、それゆえに他人を傷つける。言葉の持つ意味そのものに本質を求めるやり方はとても危険だ。我々は言葉によって本質を見つけようとする事をただちに辞めなくてはならない。実践を伴わないやり方は通用しないといってもいいだろう。100%言葉によって理解できると言うごう慢は捨てるべきだ。言葉ほど曖昧なものはない!
目に見えるものが全てなのか?目に見える物を疑え!
目に見えているものを物事の大前提とするのは間違っている。なぜなら、目に見えているものはすべてまやかしであるからだ。目に見えているものは我々の意識に一度取り込まれて初めてその存在を認識される。つまり我々意識がそれを捉えない限り、それは存在しないことになるからだ。結論づけると、我々の意識と目に見える実体は同レベルにあるということだ。我々が抱える実体のない意識、または目に見えないものを否定するのであれば、目に見えるものはすべて偽りになってしまう。目に見えるものにも実は実体などないのだ。物質と我々の意識は個々に独立しているように受け取られがちだが、実はすべて関係して繋がっているのだ。つまりこの実存世界において存在する物は唯一つ。意識だけなのだ。これからどんなに科学が発達していこうと、科学が造り出すものはそれ固体では成り立たないのだ。意識があって初めて物事が存在できるのだ。つまり一般に絶対だと言われる物も実は我々意識が造り出した産物にすぎないのだ。我々はまやかしと実体あるものを綺麗に区別していると思い込んでいるが、まやかしも実体ある物質も同等なのだ。目に見えているものを安易に信用してはならない。目に見えるものも、言葉と同様に曖昧なのだ!
言葉は何の為にあるのか?
我々が重要視している言葉は、魂を交換する道具ではない。我々はその所を変に勘違いしている。言葉は物事を分裂させて区切っているだけのものだ。それを繋げたからと言って、全てがそれでまかなえるなどと勘違いしてはならない。何度も言うが、実践を伴わない言葉は只のゴミにすぎないのだ。我々は無限の世界を言葉という代物で隙間なく区切り、バラバラにし、全ての事柄に折り合いをつけただけなのだ。言葉は単体であって全てではない。我々は言葉を持った事によって、狭い空間に押し込められ、同じ言葉を操る人間同士でコミュニケーションをはかって外の世界や中の世界を見ようともせず、あらゆる事に対して怠慢になってしまったのだ。その上、困った事に言葉には付属がないのだ。言葉は区別そのものなのだ。言葉によって壊す事はできても作ることはできない。言葉のない無限の世界へ思いを馳せて全体を掴み、言葉を知ったものだけが言葉を操るべきである。もしそれができないのであれば、言葉を100%信用し、頼ってはならない。言葉に関して無知である限り、言葉は作り上げる事に関して無力だ。
文:ヨウコ
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