Location 精神世界商店INDEX>文学と哲学>2003.08.07
ニシオナオコが贈る 「ゆるゆる言語学」
言葉っていうのは考えれば考えるほど面白い。 シニフィエとシニフィアンという言葉がある。ざっくりと言えばシニフィエとは、その音が『意味』するものであり、シニフィアンとはその音の『響き』ということになるだろうか。例えば、「ブーン」という音を発語するとする。あなたは何を思い浮かべるだろうか?ある人は、羽虫が飛んでいるところを想像するだろうし、ある人は車が走っているところを想像するだろう。音というのは、聞くものと発するものにズレがある。 音が連なりそれが言葉となった。音は言葉の源なのである。その言葉が今、不自由になっている。何が原因なのだろうか。答えは明らかだ。言葉を定義し、意味を求めることを人は始めたからだ。もともと言葉は空っぽなものである。それ自体に意味はない。意味付けするのは、いつだってそれを聴覚で捕らえる者である。シニフィエなきシニフィアン。言葉はその内側に、空虚さを抱えていればいるほど、面白いものだと思う。そしてズレがあればあるほど、面白いものだと思う。音=言葉をひとつの意味のもとに統一化する今の時代は、ひたすらナンセンスだと言えるだろう。 最近、とても興味深いことを発見した。それは『ア』という音についてである。 アというのは、五十音の一番最初に来る音である。それと同じく、『ア』と同じ発音である『A』は、アルファベットの一番最初に来る音だ。『ア』は、一番最初に来る音であると同時に、自分という意味をも含んでいる。英語のアイは、『私』という意味を持つ。さらに縄文語のアは、『私』という意味を持つ。『ア』という音について、わたしたちは、どんな印象を持っているだろう。まず目立つ音だと言えるだろう。そして発しやすい音である。気付くと、わたしたちは、『ア』という音を連発している。ため息をつく時は『アーア』、驚いた時は『ア!』、笑う時は『あははは』、むかついた時は『アー!!』、言い出すときりがない。これらのことから考えて、わたしは我々の祖先が始めて発した音は、『ア』ではないかと思うのである。そして、その時代、全ての物事は、『ア』という音ひとつで語られていたのではないかと思うのである。 そんなまさかと思うかもしれない。しかしそれを裏付けるいい例が、わたしたちの周りにたくさんいる。そう、それは赤ん坊である。言葉を喋り出す前の赤ん坊というのは、『ア』という音で全てを語っている。『お腹がちゅきまちた』という場合、『アー!』と泣くし、『あれ取ってくだちゃい』という場合、『ア、ア』と言う。欲求を飲んでやらないと、『アアアア!』と癇癪を起こす。このように、我々の祖先も、『ア』をいろんなニュアンスで発音し、それを表現の手段にしていたのではないだろうか。そして『ア』が色んな音に枝別れし、音と音が結びついて言葉になった。最終的に『ア』は、[主になる音、軸としての音=主になる世界、自分とそれ以外の世界]という実存的な意識のもとに、『自分』『自己』を表す言葉として使われるようになった。そう思うのである。 さて、あなたは『千と千尋の神隠し』の中に登場する『顔無し』という変なお化けを御存じだろうか。あのお化けは、実は原始的言語を操る達人である。すなわち縄文人とも会話ができ、北京原人とも会話ができ、古代エジプト人とも会話ができる。もちろん我々現代人とも、会話することが可能なのである。顔無しは、音としての言葉を熟知している、まさにシニフィエなきシニフィアンを実践できる芸術家なのである。顔無しのように、音としての言葉を楽しむことができると、世の中ものすごくユーモアあふれる面白いものになるのではないだろうか。 わたしたちは、今一度、原点に還り、言葉がまだひとつだった頃のように、暮らしてみればどうだろうか。言葉による差別や言葉による暴力などありえない。素敵な世界になるだろう。 文 ナオコ
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