|
メメントモリシリーズ〜死を想う故に我あり〜
序章 ヒキズリコマレルヨ
第一章 優しい痛み
第ニ章 私という存在が危うくて
第三章 儀式
第四章 刻印
第五章 ネオロマンス〜河内長野家族殺傷にみる死生観〜
第六章 人体のリアル
第七章 自爆願望と破壊的欲望
第八章 死をもって生きろ!
終章 シヲオモウユエニワレアリ
以上のコンテンツを連載予定です。
序章 ヒキズリコマレルヨ
四年前のことである。
当時私は直木賞作家が学長を勤める養成学校に通っていた。放送作家を目指すもの、脚本家を目指すもの、エッセイストや小説家を目指すもの、そんな人間が集まるカルチャースクールだった。私はそこで一年間、現役講師によるいろんな文章創作の講議を受けた。
年末の最後の講議の際に、私達はそれぞれ卒業制作の課題を出された。それは『働いている人』を取材し、取材で得たものを題材に、原稿用紙5枚の作品を仕上げるという内容のものだった。
当時の私がなぜその職業人を選んだのか分からない。おそらく深い理由はなかったはずだ。自分とは全く無縁の世界で生きる人間を書いてみたいとか、そんな職業人を選ぶ生徒はまずいないだろうとか、そんな理由だったような気がする。とにかく私は講師からその卒業制作の課題を出された時、ほとんど直感的に、まるでひらめきのようにその職業人を取材してみたいと思ったのだった。私が選んだ職人、そう、それはタトゥーアーティストだった。
仕上がった作品は優秀賞を受賞した。
だけど、私は取材以降から心の奥底にくすぶったものを抱いたままだった。
数日間ずっとタトゥースタジオに籠り、アーティストの傍らで私は作業をぼんやりと見つめ続けた。唸るタトゥーマシーン、肌に描かれる生々しいアート、閉じた目蓋を震わせ針先の痛みに耐える客たち。
ずっとそれが脳裏に残ったままだった。
学長は賞状を渡す時、私に尋ねた。
『あんた、これから何をテーマに書いていくんや?』
私は答えた。
『一般的にはマイノリティーな世界、フェティズムな世界を書き続けていきたいです』
すると学長は言った。
『ほどほどにしいや。引き際を越えると、あんたやったら絶対引きずり込まれるわ、彼らの世界に』
今から思えばあの学長の言葉は、私への揶揄だった。彼は私の作品から私自身の危うさを読み取ったからこそ、そう言ったのだと思う。だがその言葉の意味を十分知るには、私はまだまだ未熟だった。そして知った頃には、もうすでに遅過ぎた。
私の好奇心は留まる事を知らず、貪欲に彼らを求めた。私はもう彼らの世界に魅せられていたのだった。
第1章 優しい痛み
「友人の死を受け入れて、これからの生の道標にしたい」
「亡くなった子供を弔いたい」
「音楽で一生喰って行く決意表明をしたい」
「見知らぬ土地で独りぼっちで死んでも、私が誰だか分かるように」
「大嫌いな自分と決別したい」
彫師は分厚い作品集を出して来て私の前に広げ、ページを一枚めくるごとに、その作品を作成するにあたって、客が自分にどのような会話をしたのか、どのような思いでこのスタジオを訪れたのかを詳細に語ってみせた。作業が終わり鏡に映った自分を見て客がぽろりとつぶやく一言さえ、彼は作品を見るだけで思い出すことができるのだという。私はそのことに驚きを感じた。
当たり前のことだと彼は言う。
『だって一生涯身体に残るものを、僕が描くんだから。客と僕とは、ある種の運命共同体だよ』
客が持ち寄った意思を、彫師の彼は形にしていく。
電気ドライバーのようなマシンを使って、大切な大切な息吹を注ぎ込むように、丁寧に肌に絵を描いていく。彫る過程は、それほどの凄惨さはなく、まるで歯科の治療を見ているような感じである。だが、やはり針を使って肌に傷をつけていくのだから、画期的なマシンであっても痛いことには変わりはない。彫っている間は、ちりちりと焼き焦げるような痛みを感じ、血もじわじわと肌から滲み出てくる。その後も2、3日は痛みが続き、肌も赤く腫れ上がる。
そう、痛いのだ。わざわざ痛い思いをするために、客はスタジオを訪れる。
彫師が教えてくれた、客がタトゥーを彫る理由を、私はノートいっぱいに書き連ねた。書き連ねても書き連ねても、まるで要領を得なかった。音楽で一生喰って行く決意表明にしろ、亡くなった子供への弔いにしろ、何も痛い思いをするタトゥーでなくとも、他の形でできることである。それなのに、何故彼らはそれを選ぶのか。
私は様々なタトゥー愛好者たちにコンタクトを取り、独自に取材を続けた。たいてい彼らは私の質問に快く答えてくれたが、ある日、一人の男の子にこんなことを聞き返された。
『タトゥーを彫った理由?じゃあ聞くけど、あんたは(刺青)彫ってんの?』
私は彫ってないと答えた。
『じゃああんたには、いくら説明したって芯の部分までは分からないよ』
最後にその男の子は、そんなに知りたければ自分も彫ってみろ、と笑った。
その言葉は私にとって非常にショッキングな言葉だった。思い上がりもいいところだと恥ずかしく思った。そして同時に、ふいに私は思い出していた。何度か立ち会った作業現場。そこで見た彼らの表情は、痛みに耐えながらも、どこか安らいだ表情だった。まるで胎児を産み落とす母親のように、充実した喜びに満ちていた。痛みは彼らにとって痛みではないのかもしれない。それはもっと違う、何か別の感覚かもしれない。それこそ母親のように、彼らは痛みによって何かを生み出そうとしているのかもしれない。それは優しく穏やかな感覚なのだ。
そう思い始めた矢先のことだった。私は取材で知り合えたボディーピアスショップの店員に、ある招待に招かれることになった。それはボディーアートたちが集う、SMイベントだった。
第ニ章 私という存在が危うくて
暗い階段を降りると、流行りの外国のハードコアバンドの音楽が、身体にズンズンと響いて来る。
市内にあるKというバーだ。
「いらっしゃい」
両腕にタトゥーをした顔見知りの若者が私に声をかけた。
促されるまま店内に入ると、中は人で溢れ返っている。その誰もがID代わりのように、身体のどこかにピアスや刺青をしていた。三つのブースに照明が当たり、その周りに人だかりができている。覗き込むと、ボディーアーティストたちによるタトゥーやピアスの実演をしていた。カメラのシャッターを切り、一人の少女に尋ねる。
「痛くないの?」
「痛いよ。でも気持ちいい」
頼りない照明にほんのりと照らし出された彼女の白い背中には、未完成の羽が生えていた。
「きれいでしょ?」
見えるはずがないのに、まるで自分の背中の羽が見えているかのように、目を閉じたまま彼女は言う。その口元にわずかに浮かべた微笑みが印象的だった。
音楽が切り替わり、首に紐を繋がれた裸の女がボンテージ姿の主人に引っ張られながら四つん這いでやってくる。SMショーの始まりだ。
ムチで叩かれるたびに、彼女の身体は赤い痣が浮かび上がった。溶けたロウが身体に滴り落ちるたびに、小刻みに身体をよじった。悲鳴とも呻きともつかない声を上げる。
「ごめんなさい。お許し下さい。ごめんなさい。お許し下さい」
誰に対する謝罪なのか、何に対して許しを乞うのか分からず、私は今にもかき消されそうな声にただ唖然と耳を傾けた。彼女の目から流れる涙は、歓喜の色と苦痛の色が入り交じった不思議な色をしていた。
その後もショーは繰り広げられた。
金髪の若者は、裸の上半身をボンテージ姿の外国人女Vの前に無防備な身を投げ出す。注射針が一本また一本と、彼の腕や胸の表皮にしつけ止めされていく。Vは彼の身体が無機質な皮布地とでも言うように何の躊躇もなく、針で皮をすくい取る。仮止めされた針は、彼の身体に様々な模様を描いた。
赤いランジェリー姿の女は、全身を強ばらせながら、それでも両腕を頭の後ろに回し、Vに顔を突き出す。手術用糸を通されたニードルが、彼女の唇に突き刺さる。そのたびに血が吹き出て、彼女の顎を赤く濡らす。Vは彼女の唇が無機質なゴムだとでも言うように、手慣れた手つきで両唇を縫い合わせていく。糸は彼女を言語を持たない異形動物にした。
そこに集う人々が浮かべるある共通した表情に、私は気が付き始めていた。
痛みに笑う自分を泣いている。痛みに泣ける自分を笑っている。痛みに喜ぶ自分を泣いている。痛みに泣ける自分を喜んでいる。どうしようもない哀しい表情を、誰もが浮かべているのだ。そして同時にそれはとても美しい表情でもあった。
「痛くないの?」
「なんでそんなことわざわざするの?」
「理由を教えてよ」
私はこの日の為に用意してきた彼らに向ける質問すべてを、飲み込まなければならなかった。
私は自分の存在がこの空気に場違いなような気がして、背中を丸めた。徐々に自分の身体が空虚なゴム人形のような気がして、身体的感覚が保てなくなった。息が詰まりそうだった。
皮膚に埋め込まれる冷たいピアス。皮膚に刻まれる生々しい紋様。彼らは一体何になろうとしているのか?無機質な物体か?見世物小屋の異形肉体か?
いや違う。
ここにいる私が異形なのだ。ここにいる私が無機質な物体なのだ。痛みを知ることのない、リアリティーのない肉体。
私という存在が、とてつもなく危うくなってくる。
『じゃあ、あんたには、いくら説明したって芯の部分まで分からないよ』
先日、取材で私に笑って言った男の子の言葉が、再び私の胸を鋭く刺した。まるで彼らの皮膚に食い込むあのニードルのように。
第3章 儀式
SMショーのイベントから帰った私は、しばらく取材を中断した。単なる好奇心で、自分の身体に傷をつけるあの行為を、取材し続けることに迷いを感じたからだ。あれをひとつのフェティシズム、ひとつの快楽で片付けることは、到底できそうもなかった。知らない世界がある。取材を続けるならば、そう言い切って、彼らと自分を区切る線をいつでも保つことが必要だった。だけど私にはその自信がなかった。彼らを見ることは、見たくない自分の奥底を覗き見ることに等しい。
学長の言葉の意味をようやく知った。
『ヒキズリコマレルヨ』
手遅れだと知ったのは、それから一年後だった。ワープロに向かっても、一行も言葉を紡げない日々が続いたのだ。それがなぜだろうと考えた挙げ句、出た答えがそれだった。『手遅れだ。私はあれを書き続けなければ、次には進めない』
だが何からどんなふうに書いていけばいいかさえ、私には分からなかった。
ハンス・ベルメールという人形作家の存在を知ったのは、そんな時だった。
書店をブラブラとしている時、虚ろな表情の少女の球体関節人形が印象的で、思わず雑誌を手に取ってしまったのがきっかけだった。彼の作品は一言で言えば、エロティックでグロテスクだった。身体のパーツは一旦彼の手によってバラバラに引き裂かれ、再構築される。上半身を取り払い、胴の上にニ本足をつけられた顔のない人形。顔だけ愛くるしい少女だが、奇妙によじれて歪んだ身体をした人形。陰部を露出された人形。作品集は『人形の遊戯』というタイトルだった。
人形はヒトのカタチと書くほどだから、魂が宿りあたかも動き出すほどに人間の姿に似せて作られるものである。だけど彼の場合はそうではなかった。人形を人間の姿とかろうじて分かるギリギリのラインまで変容させる。身体的組み換え、身体的再構築、身体的欠如、身体的過剰。物体ではない。人形でもない。人間でもない。それは死体の模造と言うべきものだった。
ベルメールの作品は、私にある言葉を連想させた。
『自らの精神を支配する為肉体の自制を取り戻 魂と肉体の存在こそが我である 変身とは生についての再考察であり運命をも変え得る』
この一文は、ボディーピアスショップの壁に貼られていた記事で見た一文だった。ルーカス・スピラというボディーアーティストがいる。その彼の頭に彫られた刺青文字の言葉だった。
舌先を切断する(スプリット・タン)、皮膚下への異物の埋め込み(インプラント)、男性器の切除(サブインシジョン)、皮膚を焼く(ブランディング)、皮膚切開(スカリフィケーション)、指、手足の切断(アンピュテーション)、こういった究極のボディーアートが数々存在する。ベルメールが人形に対して行ったように、自らの身体をアナグラムする行為がこの世にあるのだ。だがこれらが果たして理解の範疇を越えた異常なことだと、一言で片付けてしまっていいものだろうか?
インディアンやアボリジニーなど、これらの行為を儀式としてやっていた民族がいた。魔術的な意味や宗教的な意味が込められていた。それに他の部族と自分達の部族を区別する為や、成人男性あるいは成人女性になったと証明する為など、アイデンティティーの手段としても用いられてきた。部族というものがなくなり、宗教や職業が自由化され、男女の区別すらなくなった今、私達は何をもって自己を証明できるのか?自分のオリジナルは何か、自分はどこの誰なのか、胸をはって説明できる世の中は、とっくに消えてしまった。
身体を改造して彼らは何を得ようとしているのか。痛みに堪えてまで何になりたいと思うのか。そんな私の今までの疑問は、ベルメールの作品によってあっという間に吹き飛ばされた。
痛みを感じることや血を流すことは、死に近い行為ではない。それはむしろ生に近い行為なのだ。生を語れるのは死をもってしか語れない。無機質な死体の模造と言うべき行為を繰り返すことでしか、自己を語ることはできない人間がいる。私はやはり腹をくくっていなかったのだ。彼らの本質を書くということに。そして自分自身の奥底を書くということに。
私はその日から再び取材を再開させた。私は彼らを書き続けなければならない。『生きること』を書かなければならない。そうじゃないと次には進めないのだ。
第4章 刻印
天井桟敷を旗揚げし、独創的な舞台を数多く遺した寺山修司。
彼は生前にこんな言葉を言っている。
『たしかなことは自分の未来が自分の肉体の中にしかない、ということであり、世界史は自分の血管を潜り抜けるときにはじめてはっきりとした意味を持つものだ、ということである。自由というのは、もはや、不自由の反対語ではないのである』
彼が芝居で執拗にこだわり続けたのは、フリークス的なもの、サーカス的なもの、見世物小屋の復権だった。なぜ彼がそういった片輪的なものにこだわったのか、上記の文面を読めば理解できる。自由は不自由と同義語である。全てにおいて自由だということは、同時に全てにおいて不自由なのである。自由に何かを選択できる世の中というのは、何が不必要で何を捨てるべきか常に考えなければならない『不自由の十字架』を背負い込むことに他ならない。
この寺山修司のアイロニーは、ベルメールの身体的アナグラムやボディーアート愛好家たちの身体改造に通じるものがある。私は精神が肉体を支配するという観念に疑いを抱き始めていた。肉体こそが精神を支配している。そんな妄信にとりつかれて始めていた。
なぜ彼らは痛い思いをしてタトゥーを彫るのか。なぜ彼らは痛い思いをして自らの身体に穴を穿ち、傷をつけ改造するのか?それは身体的不自由を体験することで、精神の不自由さから逃れようとする為に違いない。かつて古代の奴隷は身体に焼印をつけられた。それがある為に、彼らは奴隷という階級から、一生抜け出すことはできなかった。ボディーアート愛好家たちは、自らの肉体に刻印をつけることで、自分という存在を一生自分の身体の中に閉じ込めようとしているのではないか?だとしたら彼らの行為は、『全てにおいて自由であるという不自由』を『消化』する作業であり、他者から自分を隔離する『究極の自己愛』の顕れということになる。
そんな妄信にとりつかれ始めた私は、肉体という物体にひどく興味を持ち始めた。『カラダ』で何かを消化する行為は、ボディーアートだけに留まらず、きっとたくさんあるに違いないと思った。解体新書から解剖学から人形作家たちの本、死体写真集、身体表現主義の本に至るまで、何でも手に取った。
だが思うようにその妄信を確信に変えるものには出会えなかった。しまいには、ボディーアートの取材をしていた自分が、なぜ人形の本や解剖の本など必死に読みあさっているのかすら、分からなくなってきた。ただ時々発作的に訪れる衝動が、私を突き動かしていた。肉体が私から離れ浮遊している。その落差を埋めたい。身体をバラバラに引き裂き壊してしまいたい。その痛みを知ってみたい。血の色を見てみたい。その衝動は甘美でサディスティックで酔狂的な囁きだった。そのたび私はついに気がおかしくなってきたのじゃないかと悩んだ。
『ヒキズリコマレルヨ』
学長の声が蘇り、および腰になる。だけどヒキズリコマレルのは、私が危ういわけじゃない。もちろん彼らの行為が、危ういわけでもない。それが非日常的で異常で危うい行為だからと言って目をそらすことこそが、本当の危うさだ。私は戻ってこれなくなったとしても、何としてもやめるわけにはいかなかった。
そんなある日、私はベルメールの作品集を見て感銘を受けたように、また新たなものを発見した。
『死のパロディ』とでも呼ぶべきカルチュアーがあることを知ったのだ。そう、それは『ゴシック』というものであった。
1990年代頃、黒服に身を包み、死化粧を施した少女たちが街中に現れ始めた。初めて彼女たちを目にしたのは、大阪城公園の駅だった。黒髪のおかっぱ頭におしろい、黒い口紅、メイド服のような黒い服を着た集団が、ドヤドヤと電車に流れ込んできたのだ。「黒ミサの集会でもあったのか?」と面白がって観察していたことを、よく覚えている。流行に疎い私が彼女たちのファッションを『ゴスロリ』と呼ぶことを知ったのは、それから何年かたってからだった。少女たちがしていたようなファッションをしたビジュアル系ロックバンドが、テレビの音楽番組や雑誌を賑わすようになった。それを見て、「黒ミサの首謀者はこの人たちだったのね」と納得した。ビジュアル系バンドがどうも苦手な私は、ゴスロリやビジュアル系バンドに「勝手にやってください」と大した興味も覚えず、そのファッションの所以については知ろうともしなかった。
『ゴス』はもともと18世紀のヨーロッパで生まれた文芸で、当初は中世懐古趣味に毛が生えたような文芸だったが、その中に含まれていた吸血鬼文芸が人気を呼んだのがきっかけで、ゴシックロマンスという反キリスト的、背徳的な新しい文学が生まれた。遠く離れた地の文化がキリスト教とは無縁の日本の少女たちに、根付いたのは、ロックがきっかけだった。背徳的な文学であるゴシックと反体制的なロックが融合するのは、不思議なことではない。当然の帰結といえた。
1990年代に世界各地で流行ったゴス系は、21世紀にはほとんど廃れてきた。だが日本だけがその後も生き続け、世界からゴスカルチュアー発信国と注目されるほどに、独自のゴス文化を築き上げた。日本の少女の中になぜそれが根付いてしまったのか。もしかしたら日本は、それを根付かせるほどの土壌が整っている国なのかもしれない。
彼女たちの格好は、息をしているリアリティーがない。若さにあふれた生々しい肉体を拒絶するかのように、自分を冷たいお人形として、無機質なオブジェとして取り繕うファッション。まさに『死をパロディ化している』ように、私には映るのだった。『死を遊戯として』取り入れることが、彼女たちを夢中にさせている。そのわけは何なのか?
私は自らの肉体を殺そうとする彼女たちに、死を身に纏う彼女たちに、非常に興味をひかれた。うまく言えないが、その答えはきっと今まで出会ったボディーアート愛好家たちや、ベルメールの作品や、そして私自身の衝動と一本の線で繋がっているような気がした。
その矢先だった。あるニュースが私のもとに飛び込んだ。
私は愕然とそのニュースに耳を傾けた。
第5章 ネオロマンス −河内長野家族殺傷に見る死生感−
2003年11月1日、その事件は起こった。
19才の少年が自分の家族を刺したのだ。母親は死亡、父親と弟は重体。
そのニュースが一番最初に報道された時、さして興味を覚えなかった。近頃は少年犯罪が頻発している。こう言ってはなんだが、「また事件か」ぐらいにしか思わなかった。
事件が報道された翌日、その少年の背後から一人の女子高校生の影が浮かび上がってきた。女子高校生の自宅から、自分の家族を殺害するために購入したと思われる刃物が見つかった。少女は殺人予備容疑で逮捕された。
少女は成績優秀で学校は無遅刻無欠席。世間でいうところのいわゆる『良い子ちゃん』だったようだ。家族を殺傷した少年との仲は非常に良く、結婚話も二人の間にのぼっていた。望むものは何でも両親によって買い与えられてきた。そんな幸福そうな外見が周囲で認められる一方、彼女は「死にたい」という自殺願望を常に抱き、自傷行為に及ぶこともあった。中学生の頃からゴスカルチュアーの世界に傾倒し始め、自分のことを『わたくし』と呼び、黒いロリータ系の服を好んで着ていた。ゴスカルチュアーを通して少女たちは互いに距離を縮め、やがて単なるゴスが排他的で破壊的な二人だけの閉ざされた世界観までに発展していく。お互いの邪魔な家族を抹消して、二人だけで毎日暮らしたいと思うようになった。その後は二人で心中するつもりだったという。
二人の日常性が明るみになり、事件が『ゴスカルチュアーへの傾倒』と『自殺願望』の二つに焦点が当てられて語られるようになった時、初めて私はその事件に対して強い興味を抱くことになった。ゴスカルチュアーと自傷行為がどこかで結びついているのではないか?という自分の直感が、あながち的を外れていなかったことに、正直得意な気持ちになりさえした。私は事件に対する「やっぱりなあ」という予期的な感情から、テレビニュースに熱心に耳を傾け、新聞記事をスクラップするようになった。
だがどういうことか、報道が『ゴス』と『自殺願望』を事件と結び付け、過熱気味に報じるようになるにつれ、予期的な感情が確信に近付くどころか、それとは全く違う別の方向に取って変わり始めたのだった。
ゴスカルチュアーは前章で述べた通り、死をパロディー化し、死を遊戯として取り入れる文化である。もともとはパンクのアナーキズムに代表されるように、それは自己顕示欲から端を発して生まれた文化であったようだ。いわゆる時代のアジテーター的な役割があった。しかし今の日本の少女たちに根付いているものは、あくまで『自分達が個人的に楽しむため』だけのものに留まっている。それは、同じファッション同士のものが群れあい、集会を開いて交流を深めていることでも裏打ちされている。他人に自分達の思想やファッションを理解してもらわなくても別に一向に構わないのだ。彼女たちが死を身に纏うことに魅了されるのは、人と違うファッションや考え方を持っていることを誇示したいが為ではない。
ではなぜ、彼女たちは死を身に纏うのか?うまく言えないが、それは『死の持つイメージと同化する』ことで、『死への恐怖を和らげたい』という思いがあるからではないかと思う。
日本の文化は他国に比べると、御葬式などの儀式的な形態ひとつ挙げても、生者と死者をくっきりと分けているように思える。例えば外国では死体は火葬はしないで土葬する。それゆえ死体がきちんと残されたままの状態での死者との決別(死を受け入れること)が可能なのである。死を受け入れて行く作業は、生をなぞらえる上で大事な過程だ。なのに日本では死を受け入れる時には、もうすでにその肉体はない。ゴス文化に傾倒する日本の少女たちは、おそらく何らかの形で一度は死というものをその身で触れた経験があるのではないだろうか。死を受け入れることができず、肉体的な損失が彼女たちの中で絶対的な恐怖となった時、儀式として死をなぞらえること(=生をなぞらえること)に魅了されたのではないだろうか。怖いものを克服する時、人は知ることで臆病心を消化し、例え形だけでも一体化することで不安を解消する。生死への一体化。肉体と精神の同一化。そういう意味で、私はゴスとタトゥーがどこかで結びついているような気がしたのかもしれない。
だがこの捕らえ方で今回の事件を見ると、どうも納得がいかないのである。
「自殺願望者でゴス好きの子が、なぜ人を傷つけるようなことしなければならなかったのか?」
と。少女の『ゴス傾倒と自殺願望』と今回の事件との間に、私が言い知れない違和感を募らせ始めた折、警察が事件動機の重大な手がかりとして、彼女の自宅からパソコンを押収した。それを知り、私はさっそく彼女が立ち上げたホームページのミラーサイトを覗いてみたのだった。
第六章 人体のリアル
『内臓ストリッパー』と題された少女のホームページには、少女自らのリストカットの自傷体験が写真付きで公開されていた。
リストカットとは、手首や首筋、足首を切れ味の悪い刃物で切る自傷行為のことである。
この行為に他人事としての無責任な賛否意見が存在しているのは昔から知っている。だから私個人としては、賛同する気にも否定する気にもなれない。ただ私がこの行為について述べることを許されるなら、行為のみ捕らえればリストカットは自殺と同じぐらいのインパクトがあるものの、一線を画した完璧に似て非なるものであり、その意味が分からない人間には、軽々しく行為について否定的な意見を述べて欲しくないのである。それは己が崩壊しないが為に信じていたい独善的な価値観を、リストカッターたちに押し付けることに他ならず、もしそれを承知で否定意見を述べるなら、また一つリストカッターたちの傷を増やしてしまうことになるということを、肝に銘じて欲しいのである。
なぜ私がこれほどまでにリストカットに対してナーバスになるかと言うと、自傷癖を自己顕示のいい手段と目論み、他人を試そうとする人間がいるからだ。そう、まさに少女のように。
私は少女の自傷体験のページを見て、これはリストカットでも何でもないと感じた。リストカッターたちは、こんなふうに自らの傷を人に見せびらかすようなことはしない。ただ彼女は面白がっているのだ。周りを驚かせ騒がせてみたいだけなのだ。彼女の中には『美しく貴ぶべき自分の姿を映す鏡としての他者』しか存在しえない。警察がパソコンを押収した時、少女は「そんなもの押収してどうするの? ただの虚構なのに」と嘲ったそうだ。警察は彼女の演技にまんまと嵌められたということだ。
タトゥーに代表される身体的改造行為とリストカットの行為はそこに向かうまでの心的過程が同じである。一括りにそう言い切ると「ちょっと待った」という声が挙がるかもしれない。確かに例外はあるだろうし、言い切る程には私も自信がない。だが考えれば考える程、それらの行為が同じに思えるのだ。タトゥー取材でピアッシングにおける自傷行為について突っ込んだ質問をした時、こう答えた子がいた。
『自分が自分である為にするのだ』と。
自分が自分である為にとはどういう意味なのだろうか? その意味を十分理解する上で、重要になってくるのは、前章で紹介したルーカス・スピラの言葉である。
『自らの精神を支配する為肉体の自制を取り戻 魂と肉体の存在こそが我である 変身とは生についての再考察であり運命をも変え得る』
肉体と精神が一体となって初めてアイデンティティーが成り立つ。肉体という物理的な存在だけあっても精神という非科学的な存在だけあっても、私達は自己を証明することはできない。私達は生まれた当初は、あらゆる世界においての神であり、全知全能感に満たされたナルシシズム的世界にいた。だが一番最初の挫折感を味わった瞬間から、その世界は消え失せた。そして残された一生は、ひたすら肉体と精神との乖離の道を突き進み続けなければならないのである。言うなれば私達は人体へのリアリティーを感じることができず、常に精神分裂症気味な状態にある。
他者の目が判断基準になる外面的な自己(ここでいうところの肉体)を築き上げればあげる程、自分が判断基準になる内面的自己(ここでいうところの精神)は危機に陥る。外面的自己が飽和状態になった時、必ず内面的自己は爆発する。この爆発こそが、つまり『自らの精神を支配する為肉体の自制を取り戻す』闘いと言えるのではないだろうか。
何だかややこしいことを書いてしまったが、『自分が自分である為にする』ということは、『自分の精神がどこかに消えてしまわないように肉体に繋ぎ止めておくこと』という意味だと私は思うのだ。だとしたら、まず肉体を自分の支配下におくことが必要となる。支配下におくには、どうすればいいのか? 答えは簡単だ。 肉体的な死(物質的な命)を自らがコントロールすればいい。その気になれば生かすも殺すも『私』一つの意思で自由になるのだということを、自らの肉体に思い知らせれば良い。死の危険性を肌で感じればいい。ボディーピアスの穴を徐々に拡張する。血が流れる。激しい痛みが走る。その血こそがその痛みこそが、精神の再起なのだ。
さて、リストカットの話に戻るが、この行為を上記の解釈に当てはめると、私が自傷行為が自殺行為とは似て非なるものであるといった意味も、リストカッターたちが自らの傷を人に見せびらかすようなことはしないと言った意味も理解してもらえるだろうし、少女のホームページを見て、彼女はただの食わせ者だと言った意味も理解してもらえると思う。その行為に他人の目など必要ないのだ。他人の注目を浴びてそれで自己を確かめて満足できる人間であれば、もとよりリストカットのような方法など取る必要すらない。
少女が『変態的作文』と称したページの中のしたためている散文の一つをよく読んで欲しい。
値段は高くなくてもいいから 荷台の端に山積みにして 埋め立て地に捨てて下さい
唯の置物 唯の屍骸 腐りかけの肉の塊
−命日に降る雨より−
彼女が死と同一化することで死を受け入れようとするゴス少女ならば、肉体によって精神の再起を願うリストカッターならば、自らの肉体に対し激しい愛着こそすれ、このように『腐りかけの肉の塊』などとは決して表現しないに違いない。彼女がゴスを愛し、リストカットにハマってしまったのは、ゴスにおける世間的な偏見、リストカットにおける世間的な偏見のせいではないだろうか? 世の中はこのような文化も行為も、不健康的で病的であるという理由で受け入れない。
『そんなことをする人間は狂っている』
『気持ちが悪い。恐ろしい。異質である』
『私達とは違う世界で生きている。』
少女は目立つためなら異質でいてやろうと思った。自分に目が向けられるためなら、鼻つまみ物の気狂いでいてやろうと思った。少女は世の中の偏見と自我同一化したのじゃないだろうか? 化け物を生むのはいつだってそれを排除しようとするマジョリティー世界だ。
少女のミラーサイトに寄せられたおびただしい罵倒、共感、さまざまな投稿の中から、私は印象的な一文を見つけた。
『(少女の起こした)事件を知り此処へ出向きました。が、(少女が)有名になれた事を救いだと想っていただきたい。堕ちている事で快楽に変えれる人がいる事、そしてそうしていなければ生きている心地はゼロであること。理解無い世に知らせてくれた。(少女へ)感謝いたします。』
私達の生きている世界がいかに肉体的である(外的自己に支配されている)か、現実を見せつけられた気がした。
>>>back
|